わたしは孤独が好き~フランソワーズ・サガンさんの『愛と同じくらい孤独』
フランソワーズ・サガンさんの『悲しみよ こんにちは』をもう一度読もうと思ったのですが、お店に持っていってしまっているので手近にあった『愛と同じくらい孤独』を再読してみました。
マリー=ドミニク・ルリエーヴルさんの『サガン 疾走する生』を読んで、サガンさんの壮絶な生き方を知り、一層サガンさんの生き方に興味をいだきました。
『サガン 疾走する生』には冒頭にこんなくだりがでてきます。
サガンが、みずからジャガーXK140を運転し、初めて自宅まで迎えにきたときのことを、ベルナールが話してくれた。
「車の色は黒だったかな、深緑だったかな、よく覚えていない。免許をもっていないぼくには、若い女の子がジャガーで運転手を務めてくれるなんて、どきどきしたなあ」
サガンの生き方が彼にはまぶしかった。
スコット・フィッツジェラルドがゼルダと恋に落ちたときのように、ベルナール・フランクは、サガンの「大胆さ、正直さ、自意識の強さ」に惚れこんだ。彼は、宇宙船に乗りこむかのように、ジャガーの助手席に座り、以後ずっと彼女のそばを離れなかった。
「ぼくは、彼女を超えられないと悟ったんだ」
[マリー=ドミニク・ルリエーヴルさんの『サガン 疾走する生』より]
サガンさんは、恰好いい人だったのだろうなって思わせる一節です。
『悲しみよ こんにちは』と『愛と同じくらい孤独』はこの前後に読んでいるのですが、『愛と同じくらい孤独』の中でインタビューに答えているサガンさんの話す内容が素敵です。タイトルにも惹かれます。
わたしの作品にはテーマが二つあります。確かにいつも同じです、恋愛と孤独。孤独と恋愛という順で言った方が正しいかもしれません(中略)
わたしの本の中ではドラマチックな事件が少ないのですが、それは、考えてみるとすべてがドラマチックだからです。ある人に出会い、恋愛し、一緒に暮し、その人が自分のすべてとなり、なのに三年のちには心を痛めて別れることになる、ドラマチックですよね。わたしは孤独が好きです、でも他人には愛を感じていますし、好きな人にはとても興味を持っています。
(フランソワーズ・サガン、『愛と同じくらい孤独』より)
日常起こることが「すべてがドラマチック」ということは考えさせられる言葉です。
むかし、人工知能の学会で研究者が、「研究室でいろいろ考えているよりも現実をあさる方が有益なことが得られる」と言っていて印象的だったことを思いだします。
サガンさんは、「孤独が好き」ということと「人々がひとりではいられない」ということを言っていて、メイ・サートンさんも同じことを言っています。
「メイ・サートンさんの『独り居の日記』」のブログ
https://soleil-lune-tokyo.com/may240624/
でもほとんどの人たちの生活は恐ろしいものです。無理やりに人をつかまえて、朝から晩まで働かせて、ばかなテレビがあって、一人では絶対にいられない、かならず誰かに追っかけられて摑まる。いわゆる《良き時代、一秒ずつ時間が流れて行くのが見ることのできた古き良き時代の一瞬間だってもう味わえないのですもの。
(フランソワーズ・サガン、『愛と同じくらい孤独』より)
人は時が過ぎていくのを味わう暇がないんです。一分一分は、贈り物として捉えられるものなのに、その前後の時間に挟まれた飛び地のようなものになってしまっているのです。 一分一分は――これが生の原理そのものですが 充実した時間、幸せや太陽や沈黙や真の感情など、何かに満ちた時間であるべきです。わたしたちは真の感情を持つ暇もなくなってしまったんです。
(フランソワーズ・サガン、『愛と同じくらい孤独』より)
このくだりを読むと、リンドバーグさんの影響も受けているような印象も感じます。
「アン・モロウ・リンドバーグさんの想い~『海からの贈物』」のブログ
https://soleil-lune-tokyo.com/lindbergh_umi/
「わたしは孤独が好きです、でも他人には愛を感じていますし、好きな人にはとても興味を持っています」と言うサガンさんは、こんなことも話しています。
愛することはただ《大好き≫ということだけではありません、特に理解することです。理解するというのは見逃すこと余計な口出しをしないことです。
(フランソワーズ・サガン、『愛と同じくらい孤独』より)
「理解する」ことが「見逃すこと」「口出ししないこと」ということは、相手の言うことを聞くこと、受けとめることなのかもしれないなと思います。
サガンさんの波乱な半生と照らしあわせてサガンさんの言葉を読むと、サガンさんの魅力が一層わかるような気がします。
(この本はページ内に鉛筆の線引きが多いので、オンラインストアには登録していません)
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