アン・モロウ・リンドバーグさんの想い~『海からの贈物』

 


しばらく前のことですが、メイ・サートンさんの『独り居の日記』の新装版がでていたので読んでみたらとってもよかったので、よく行く本屋さんで『独り居の日記』のことを話題にしていたら、スタッフさん2人からアン・モロウ・リンドバーグさんの『海からの贈物』もいいという話しを聞きました。
『海からの贈物』は高校のときに読んでそれっきりになっていたので再び読もうと思ったのですが、お部屋のどこにしまってあるのか見つからない。探すのはあとにして図書館で読んでみたところ、とても素敵な本でした。
最近、ふたたび『海からの贈物』を思いだしたので再読。何度読んでも素敵な本です。

『海からの贈物』は、島で一人で暮らしたリンドバーグさんが、島の自然の中で感じたことや考えたことを書きしるした本です。貝殻に想いを重ねたリンドバーグさんの、人として、そして女性としての生きかたが綴られており、海辺の風景の抒情的でやさしい文章の調べに乗りながら、自身の思いを確かめ、そしてほかの女性への想いもこめられています。1955年に書かれた本でありながら今でもまったく色褪せていません。

引用多めですが、紹介したいと思います(引用の文章は旧版の『海からの贈物』になります)。

子供を生んで育て、食べさせて教育し、一軒の家を持つということが意味する無数のことに頭を使い、いろいろな人間と付き合って旨く舵を取るという、大概の女ならばすることが芸術家、思索家、或いは聖者の生活には適していない。そこで問題は、女と職業、女と家庭、女と独立というようなことだけではなくて、もっと根本的に、生活が何かと気を散らさずにはおかない中でどうすれば自分自身であることを失なわずにいられるか、車の輪にどれだけと圧力が掛って軸が割れそうになっても、どうすればそれに負けずにいられるか、ということなのである。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

リンドバーグさんは、1人の時間の過ごす大切さと内面の豊かさについても書いています。

我々は今日、一人になることを恐れるあま余りに、決して一人になることがなくなっている。家族や、友達や、映画の助けが借りられない時でも、ラジオやテレビがあって、寂しいというのが悩みの種だった女も、今日ではもう一人にされる心配はない。家で仕事をしている時でも、流行歌手が脇にいて歌ってくれる。昔の女のように一人で空想に耽るほうが、まだしもこれよりは独創的なものを持っていた。それは少なくとも、自分でやらなければならないことで、そしてそれは自分の内的な生活を豊かにした。しかし今日では、私たちは私たちの孤独の世界に自分の夢を咲かせる代りに、そこを絶え間ない音楽やお喋りで埋めて、そして我々はそれを聞いてさえもいない。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

これは女性でも男性でも同じことかもしれません。自分のココロの声に耳を傾けるというより、外の刺激を求めて満たされたような気になっている傾向が強いことを感じます。

リンドバーグさんは、島で一人で暮らしながら、ゆるやかな時間の中で考えてきて得たものがたくさんでしたが、いずれは島から離れます。

私が手に入れた宝をなくすのをこれほど恐れているのだろうか。それは単に私に芸術家の素質があるからだけではない。芸術家は勿論、自分を小出しに人に与えることを好まない。自分がいっぱいになるまで待つことが芸術家には必要だからである。しかしそれだけではなくて、私が思い掛けなくこういう気を起すのは、私が女だからでもある。
これは矛盾していると言わなければならない。女は本能的に自分というものを与えることを望んでいて、同時に、自分を小刻みに人に与えることを喜ばない。(中略) 私の考えでは、女は自分を小出しに与えるということより、無意味に与えるのを嫌うのである。私たちが恐れるのは、私たちの気力が幾つかの隙間から洩れて行くということでなくて、それがただ洩れてなくなるのではないかということなのである。私たちが自分というものを与えた結果は、男がその仕事の世界で同じことをした場合のようにはっきりした形を取らない。一家の主婦がやる仕事は、雇い主に給料を上げてもらうこともなければ、人に褒められて私たちが及第したことが解るということも殆どない。子供というものを除けば、殊に今日では、女の仕事は多くの場合、眼に見えないのである。私たちは家事と、家庭生活と、社交に属する無数の内容を異にした事柄を一つの全体に組合せるのを仕事にしている。それは眼に見えない糸を使って綾取りをやっているようなもので、この家事や、お使いや、お付き合いの断片が混ぜこぜになっているのを指して、どうしてそれを一つの創造と呼ぶことができるだろうか。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

クリエイティブな活動をしていた女性も、家事や子育てに追われ、そうするのが当たり前、できるのが当たり前とされていたりします。できたことを「頑張ったね」と言われることもないとリンドバークさんは指摘していて、それが現代でも続いていることに驚きます。

女はそれとは反対に、一人で静かに時間を過すとか、ゆっくりものを考えるとか、お祈りとか、音楽とか、その他、読書でも、勉強でも、仕事でも、自分の内部に向わせて、今日の世界に働いている各種の遠心力な力に抵抗するものを求めなければならない。それは体を使ってすることでも、知的なことでも、芸術的なことでも、自分に創造的な生き方をさせるものなら何でも構わないのである。それは大規模な仕事や計画でなくてもいいが、自分でやるものでなくてはならなくて、朝、花瓶一つに花を活けるのは、詩を一つ書いたり、一度だけでもお祈りするのと同様に、忙しい一日の間、或る静かな気持を失わずにいる結果になることもある。要するに、少しでも自分の内部に注意を向ける時間があることが大切でなのである。
[リンドバーグ夫人、『海からの贈物』より]

わたし自身への言葉としても受けとめたい言葉です。
古い版の本は出てきたので読んでお友達にあげました。新しい版の本は部屋のどこかに眠っています。
落合恵子さんの訳の本もあるので手にいれて読みたいと思います。


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