自動と非自動の逆転~『エクス・マキナ』

『エクス・マキナ』のDVDのジャケットの写真。アンドロイドのエヴァの写真が載っています。

スティーヴン・ミルハウザーさんの『イン・ザ・ペニー・アーケード』の自動人形の話しを読んだあとに、アンドロイドがでてくる映画の『ex machina(エクス・マキナ)』を見ました。
「ex machina」は「機械仕掛けの」という意味で、何度も見ている映画なのですがアンドロイドやロボットの映画の中では特に好きな映画です。

検索サービスを提供する会社の社長がエヴァというアンドロイドを開発して、研究所で社員の1人の男性にそのアンドロイドをテスト(チューリングテスト)するというものです。チューリングテストは、テストをする対象が、アンドロイド(ロボット)であるか人間であるかどうかを見分けられるかどうかのテストです。

この映画は、実は社員の男側が観察(テスト)されていたり、アンドロイドの意識や学習や人間とのコミュニケーションなどいろいろ示唆にとんだ作品で、見れば見るほどに深いなと思ってしまう映画です。

松田青子さんの『じゃじゃ馬にさせておいて』には、この『エクス・マキナ』のことを書いています。

『じゃじゃ馬にさせておいて』の本の表紙の写真。

一人の男の実験のため、もう一人の男の好みの“女性”として創造されたアンドロイドのエヴァは、男側が要求したゲームに言われたとおりに参加し、言われたとおりに勝利したのに、要求をはねつけられる。 怒って当然だ。
“悪人〟と〝善人〟として二人の男が登場するのだが、善人”であるはずの男がいかに偽善的で女性の置かれた状況にまったく理解がないか、という現実世界あるあるも、拍手喝采したいほど的確に描かれている。無自覚に主導権は自分たちにあると思い込んでいる傲慢な“男社会”に囚われた彼女がどう戦い、何をどう選択するのか。 あまりにも刺激的な映画体験だった。
ジェンダーや人種に偏見がないエヴァの言動は両義的に見えるところもあり、当事者である彼女の視点に徹頭徹尾寄り添わなければ、解釈をどこかで間違いかねないという、鋭いつくりになっている。(中略)
「エクス・マキナ』は観客の批判も含めて現代社会の縮図になっているという、死ぬほどクレバーな作品で、最新型フェミニズム映画として称えたい。

「無自覚に主導権は自分たちにあると思い込んでいる傲慢な“男社会”」と「”善人”であるはずの男がいかに偽善的で女性の置かれた状況にまったく理解がない」と言っていますが、エヴァに惹かれて囚われの身から逃がす手立てを考えている男は偽善的であるという要素は見てとれないかもしれませんが、既成の(社会の、価値観で無意識に(自動的に)思考判断してエヴァに接する男の愚かさ(弱さ)が露見する映画かもしれません。それとは対照的に、あらたな意識がめざめプログラムされた自動的ではない行動をしていくようになってくるエヴァたちのアンドロイド。
もともと自動で動いているアンドロイドと、非自動で動いているはずの人間の立場が逆転しているようにも感じます。バイアスに支配されがちな人間の性(さが)への警告にも思えてきます。

研究所を抜け出し、お洋服を着た人間の姿そっくりのエヴァが街中の雑踏に溶け込んでいるシーンで終わります。ちょっと空恐ろしさも感じますが、また見たくなる映画です。


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