ジャン・ルノワール監督の「フレンチ・カンカン」、そして「恋多き女」

ジャン・ルノワール監督の「フレンチ・カンカン」のDVDのジャケット

かなり昔ですが、学芸大学にあった雑貨やホテルのあるCLASKA(クラスカ)の屋上で「ルーフトップシネマ」という野外上映会で見た映画、ジャン・ルノワール監督の「フレンチカンカン」。
そのあと、また見たくてDVDを買って何回か見ています。

1年くらい前に読んでいた『ゴダール全評論・全発言Ⅰ 1950-1967』を、最近また再読しているのですが、前に読んだときには気にとめなかったくだりがいろいろ気になっています。

『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』の本の表紙の写真
この中に「フレンチカンカン」と「恋多き女」というジャン・ルノワール監督の映画の話しが出てきます。

ルノワールは最も知的な映画作家だということは結局は、彼は骨の髄までフランス人だということと同じことである。そして『恋多き女』がきわめつきのフランス映画 《そのものであるのは、この映画が世界で最も知的な映画だからである。この映画は芸術であると同時に芸術についての理論であり、美であると同時に美の秘密であり、映画であると同時に映画であることの理由の説明なのだ。(中略)
『恋多き女』はこの作家の最もモーツァルト的な映画である。しかも、『ゲームの規則』とは違い、外面的な見かけにおいてより以上に哲学においてモーツァルト的な映画である。 『フレンチ・カンカン』を撮りおえて 『恋多き女』の準備にとりかかるルノワールには、倫理的観点から見れば、クラリネットのための協奏曲を書きあげて『魔笛』にとりかかる男に似たところがある。
どちらにも、内容に関しては同じ皮肉と同じ嫌悪が見られ、形式に関しては、単純さのなかの同じ天才的な大胆さが見られるのだ。映画とはなにかという疑問に対し、『恋多き女』はこう答えている。映画以上のものだ、と。
(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ 1950-1967』より)

理解にいたらないところがたくさんなのですが、モーツァルトの「クラリネット協奏曲」は「魔笛」の後の作品でモーツァルトの最後の作品だったと思っていたのですが、「倫理学観点から見れば」と書いてあるので、作曲家の社会的道徳や規範に対する善し悪しへの姿勢のことを言っているような気もします。
「クラリネット協奏曲」は澄みきった清楚な感じがしますが、「魔笛」の序章はかろやかな感じから始まり、有名な第14曲の「夜の女王のアリア」(Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen、復讐の炎は地獄のように我が心に燃え)になると復讐(ゴダールの言う「嫌悪」?)を高らかに歌い、絶望や恋のはじけるような曲もあったりします。
映画「アマデウス」には、この「魔笛」の「夜の女王のアリア」をアマデウスが指揮演奏するシーンがありますね。こちらもまた見たい映画です。
いずれにせよ、ゴダールのこのくだりを理解するには、「恋多き女」を見てみないと始まらないので見てみたいと思います。
そして「フレンチカンカン」ももう1度見てみたいと思います。

よろしければシェアをお願いいたします

コメント

コメントする

目次